台風の後

台風が過ぎると、まずサッシにベッタリといっぱい張りついた、葉っぱと塩けを洗い流します。木々は枝だけの丸はだかの状態で、小枝等は、折れてなくなっています。

床を乾かし、畳をひき、ふとんを干したりして、台風の後かたずけは大変です。

電気は20日以上停電したままでしたが、あまり生活に不便さは、感じませんでした。すぐ電気が直らないと解った時に、共同売店では、冷凍品の放出がされ、皆、少しずつ買って食べました。

明るいうちに、ご飯を作って食べ、暗くなったら寝る、という健全な生活で、夜の星が、とても綺麗でした。

毎日、食べるだけの、獲物(食料)を採る生活でした。台風の後かたずけで、疲れても、夏の夜は、夕涼みを兼ねて、橋の上で、魚釣りをしたり、優雅で、のんびりした暮らしが出来る程、西表島の自然は、豊かでした。

今でいう、スローライフ、エコな生活そのままで、あの頃が、1番人間らしい生活だったと、思います。

家のリホーム

私達2人が、住む家を捜していると、土地の人が空き家を買わないか?と言ってくれたので、即決、購入した。

中古の家は人が住んで居なかったので、シロアリと木食い虫にやられていた。根太から天井、屋根のトタン板まですべて、取り換えました。リフォームというよりは、セルフビルド状態です。

新しい畳を12枚買い、天井板を張りかえ、台所はフローリングにし、窓は雨戸だけで閉めたら真っ暗になってしまうので、アルミサッシを取り付けた。
すべて品物は石垣島に買いに行かなくては手に入らないので船賃や運搬代がとてもかかり、貯金が、目にみえて減ってきて先行きの不安がつのった時期でした。。

4か月後の7月30日に大きな台風5号が西表島を直撃したが家は壊れる事無く、耐えた。初めて出会ったこの台風は特別大きな被害を出し私達に自然のすごさと、台風に対するトラウマを残しました。

台風について

この台風5号は西表島を直撃。大きな台風だったので、台風に目も大きく、台風が過ぎ去ったと、カン違いさせる程の、良い天気でした。この、晴れ間の、台風の目にいる時に、皆、外に出て、被害状況の点検や対策をします。

私達は港に避難させた、サバニが無事な事を確認(結局、返しの風で沈没。)しに外に出た時、電線が、いたる所で切れて、ぶらさっがていました。返しの風は、もっと強烈と、言われていたので、屋根が飛ばされ無いように、鉄板や、クギを、打ちまくった。

吹き返しの風はもっと強烈で、ピュー、ドシンーと地響きを立てて吹き、家は揺れ、強風に押し出されて、雨水がピュピュと吹き込んで床がびしょ濡れになり、驚きました。畳と布団は、濡れないように、倉庫に避難させて、私達は、カッパをきて、停電した部屋の中で、寝ずに1晩、過ごしたのでした。

外では、強風にあおられて、カワラや色んなものが飛びまくっているのが、見えました。
我が家の防風戸も、ドシンという音と共にめくられて、どこかへ飛んでいってしまいました。

全壊や半壊の家が出て大変な状況でしたが、人的被害(負傷者等)は、ありませんでした。。
木の電柱は、傾くだけでしたが、コンクリートの電柱が、たくさん折れてしまったので、復旧には、長い日数が、かかってしまいました。

西表島移住の体験記


いつの間にか西表島に暮らし始めて33年。内地にいた期間より島に居た年数が
長くなってしまった。
若かりし頃を思い出して色々と書いてみようと思う

ペンションなかまがわ 0980−85−5407
e-mail: p-nakamagawa@canvas.ocn.ne.jp

当時の生活

1975年頃の生活と今の生活で、大きく違うのはっパソコンと携帯電話、電子レンジ、エアコンが家庭生活の中に、
普及した以外は、あまり無いと思います。

テレビ、冷蔵庫、洗濯機、電気がま、扇風機は、ありました。でも、私が子供の頃(東京オリンピック前)は、電化製品
はぜいたく品で、ラジオ、洗濯板、まき、うちわで、生活していたので、どこでも生活する自信は、ありました。
むしろ、そんな生活を求め、体験できて、すごく楽しかったっです。

ただ1つ、私達を驚かしたのは、電話でした。電話機にハンドルが付いていて、クルクル回すと交換手が出て、つない
でもらうのですが、特急と普通があったのです。特急は、料金が高いのですが、普通より速いのです。
でも皆、速くしたいので特急に頼むから、かなり待たなくてはなりませんでした。

隣近所は、タダだったので、地元の人達は、ちょっとした事でも、電話を使っていました。しばらくすると、ダイヤル式
になり、今まで通りに使っていた人達は、請求書を見て、驚いたようです。

西表島移住

1975年4月新婚旅行で初めて西表島に行ってから2年経った1977年3月に、日本の1番南の、1番大きな島という事で西表島へ移住することに決めました。。旅行の時に船をチャーターして釣りをしたら魚がたくさん
釣れたので、漁師をして暮らしていけると思ったからです。その時はしらなかったのですが、4月はクチナギという魚の産卵期で、誰でも大漁出来たのです。でも、この誤解が私達に、西表島移住を決心させた1番のカギでした。

早速、中古のサバニ(船)を買い1年の漁師経験をして、漁協の正組合員になりました。ウミンチュ(漁師)になり、もうける程は獲れなかったのですが、生活していく事は出来ました。毎日、魚を食べていたら、肉が恋しくなりました。

肉は1斤(600グラム)の冷凍ブロック肉で、スライス肉が欲しいと心から、思いました。

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